緑(カボチャ)
趣味ってほどではないが、ベランダに緑を置いている。
☝はカボチャの芽。
大きくてかわいい🎵
買ってきた野菜に種があると植えたくなる。
基本的には目は出る。
ただ実を付けるまではまだ無い。
日本から運んだ種は全滅。
気候が合わないのか、土が悪いのか。
眼が出てすぐ消えていく。
タイ語の土・肥料の選び方もわからない。
結果、トウガラシが2.3粒採れたので精一杯。
でも懲りずに植え続ける日々。
ウィークエンドマーケットでお馴染みチャッチャックが、毎週水曜日に緑市になる。
大分前に行ったきりだったが、用事でそっかの方へ行ったので、ついでに寄ってみた。
前回連れて帰った植物も全滅している。
いい加減懲りれば良いのに。
っと思いつつリベンジのサボテンと多肉植物ジェリービーンズと食虫植物のウツホカズラを購入。
☝はジェリービーンズ。
朝ツボミだった花が昼には咲いた🎵
The reason that I have arrived in Thailand⑦ インディア
ネパールで出会ったナオコは、両親とも日本人だけどイギリス生まれでネイティブ英語を話すの女の子であった。
話してみると、やはり日本語がネイティブではない。かといって、私も英語がほとんど使えない為、お互いカタコトで会話をしていた。
学生時代から、どちらかというと男友達が多く、女子と2人きりで居る事に緊張を感じる性格であったが、ナオコとは安宿の小さなベッドで数ヶ月を過ごすことが出来た初めての女子であった。
そんなナオコと次の行き先として決めたのがインドのリシュケシュ。
ヨガ三昧に行こうと決定。
着いてから決めた宿で会ったGuillermo。ヘロと呼んでいたかな?
こちらも陽気なスペイン人。
なにかと気遣いをしてくれたとっても気のいい人。
夜な夜なロウソクパーティと称して集う。
二人にとヘロがお花をプレゼントしてくれた。
スパニッシュギター演奏。
御礼に帽子をプレゼント。
外国人経営カフェの屋上からの景色①
② ガンガーの夕日
かなり上流なので、水もかなりキレイ。
ガンガーからの夕日を別の角度から。
ナオコの彼氏はなぜかタイ人で、チェンマイの彼の家に空き部屋があるので、そこに行かないかと誘われた。
ネパールからの旅先が決められず、資金も底が見えてきていたので、流れのままに着いて行ってみた。
そう、今になってやっと気付いたが、何も考えていないというか、全て流れに身を任せて今に至る。
これが私のタイへ至る道のりだった。
ナオコ作 meg buddha
The reason that I have arrived in Thailand⑥ ナオコと空を飛ぶ
ヴィパッサナ終了後、そこで出会ったアルゼンチーノのJoseの友だちが近くにおうちを借りて住んでいるのでそこに行こうと誘われる。
参加者の殆どがそこに集う事になった。
どうやらおうちを借りたは良いが、ボロくて住めないので改装を手伝って欲しいようだ。
どうせ時間はあるので行ってみるとビックリの超かわいらしいイタリアンガールが一人で住んでいた。
小高い丘の上にあるそのおうちは、とてもステキな場所であった。
おうちの中でみんなで寝袋で眠り、起床後に瞑想、食事を作り、部屋を片付け、夜は火を炊いて暖を取る。
ポカラで知ったポリッジ。
得体の知れないシリアルと果物をひたすらミルクで煮てできたもの。
思い思いに過ごす。
手前が私。ピンクのショールがナオコ。
10人程の体の大きい外国人たちを満足させる量の料理を作るのはなかなか大変だった。
ネパール料理グッズを駆使して、みんなの知恵を絞り出来上がったディナー。
焚き火でしっかり簡易圧力鍋でゴハンも炊けたし、チャパティーもなかなか上手に焼けた。
山奥生活が役に立った。
実はみんなヴィパッサナーを途中でやめたかったらしい。
真剣だったのは数人の模様。
まん中Iñaki (イニャキ)スペイン人。たしかバスク地方の人だったような。いつも木登りをしていた話をしてた。
クリスマスにみんなでレイクサイドへ下山。
外国人は家族と過ごすが、わざわざナオコの家族が遊びに来ていて一緒に過ごす。
元旦。
イニャキのお姉さんも遊びに来ていて、Joseと私も一緒にナオコの家族旅行に便乗させてもらう。
サランコットの雲海からの初日の出。
寒くてありったけの服と毛布をまとう。私(左)とナオコ(右)
その後、みんなで空を飛びに行った!
あまりの興奮に飛び足らず。
私も。
お正月の私の誕生日を即席チョコレートレーズンケーキとろうそくでみんなでお祝いしてくれた。
誕生日が正月となると、学校も休みでみんなにお祝いしてもらった経験が無く、とてもうれしい誕生日だった。
たのしいポカラ滞在であったが、そろそろ移動となる。
ナオコ。
朝日と。
バスターミナルへポカラのおいしいパン1斤とピーナッツバターを持って向かう。
The reason that I have arrived in Thailand⑤ ヴィパッサナー
一応傷心の身となり、突然一人また一人旅となった。
一人となったとたんに、今まで一切会うことの無かった日本人旅行者に2人ばかり会った。
そのうちの一人は、インドのダラムシャラーで過ごしていた時、近くのヨガ教室にて日本人修行者だった。
ネパールの話をすると、彼はいつもポカラに行くという。
そこで次の目的地をポカラにしてみた。
もう一人はポカラへの道すがらにたまたま出会ったもう一人の日本人。
特に長く一緒に居たわけではなかったが、その2人から同じキーワードが出てきた。
その時まで全く知らなかった『ヴィパッサナー』。
流されるままにそれまで過ごしていた自分がいわゆるスピリチュアル系だとは今でも思わないが、ポカラのインターネットカフェで調べたところ1週間後のポカラでのコースへの申し込みが出来てしまった。
時間もあるし、料金もドネーションとのことなので行ってみる事にした。
滞在していたレイクサイドからバスを乗り継いで山奥へ。
どうやって辿り着いたか記憶にないが、山奥の山肌にあり、正面にはアンナプルナを見渡す事ができる場所。そこがヴィパッサナー瞑想の場であった。
英語に全く自信がない事を伝えると、日本語テープを用意してくれて、説教の時間は個別に一人でテープを聞き、あとは朝から晩まで瞑想。
詳しくはおそらく別の人が説明していると思うので、瞑想法については深く触れないが、何も考えず生きていた事が功を奏したと思われるが、10日間の間、日に日に瞑想の感覚を掴んでいく感覚と、人と言葉も交わさず、目も合わせずという貴重な経験と、あとはひたすらアンナプルナを眺めるという体験。
食事もその土地で取れた新鮮な野菜が刺激の無いネパール料理として用意してくれている。
最初は組んでいる脚が痛くなり、それに格闘する毎日であったが、最後の方では、食事を消化するエネルギーを感じる時間がもったいないと、殆ど食事もとらず、寝ている間も瞑想状態を保ち、なんとも云えぬフラットな感覚で終了した。
なんとも清々しく、まったくのふれあいの無かった参加者たちとも物凄い親近感とともに自然と友だちになった。
その中で一人、日本人の女の子が居ることに気付いていた。
瞑想中のアイコンタクトは禁止であったが、その事はちょっとだけコンタクトしていた。期間が終わったら話しかけようと決めていた。
話しかけてビックリ、その子は日本語がヘタクソだった。
The reason that I have arrived in Thailand④ 離婚?
ネパールに戻ると、いろいろと状況が混乱していた。
私が居ない間に彼の村と彼の許婚の村が喧嘩になった。
許婚の親としては、『ウチの娘のドコが気に入らないのだ!!』とのこと。
許婚の話は、結婚の話をされた時に聞いていたが本人同士はその気が無いし、そこまで絶対的なものではないと言っていたので、問題にはならないと思っていた。
私本人が村に滞在していれば、まだ示しは付くが、本当に日本人なんかと結婚するのか、許婚を断るウソではないかと言われたらしい。
そして、明らかに自分のせいであるが、私が村に滞在中、ほとんど働けなかった。
嫁は働き者に限るという習慣の中で、私はあまりにも働かなさすぎた。
普通ならA型肝炎であったと言い訳ができるが、村人達に「具合が悪いんです」という言葉は伝わらなかった。ただ毎日下痢をしている貧弱で怠け癖のあるただの外国人に過ぎず、『肝炎』なんて言葉は通じなかった。
何度も具合が悪いと隣村に言った時もクリニックに寄ったりしたが、そんなに長く具合が悪い若者は村にはいない。
わかってもらえなくてもしょうがない。
それでも彼の母は何もしなくても良いと一生懸命庇ってくれた。
お母さん。『アマ』と呼んでいた。とってもやさしかった。
お祝い料理のプーリーを親戚のオバサンが作ってくれた。
フラッシュを使っているのでわかり辛いが、真っ暗なので懐中電灯とオイルランプの中で作る。
アマと弟のガネーシャと、親戚のアムリタ。
サブジー(野菜)の収穫のお手伝い。
そもそも論だが、結婚を決めた時の心境は、この人のお嫁さんになりたいという気持ちは殆ど無く、「この村に暮らしたい!」と言う気持ちだった。
小さな集落でお互いに助け合い、文明から離れたココで子供を生み育てたいという気持ちは強く本物であったと思う。
たまにどうしようもないなと思うところもあったが、この家族が好きだった。
なので、村同士の喧嘩でこの家族が周りの村から責められているということが悲しかった。
そして、日本人がいかにひ弱で、あそこに住む人達がいかにたくましいか、体で思い知った。
自分の考えが甘かった。
いろいろとお騒がせし申し訳ない気持ちだったが、自分が居なくなる事が一番この人達のため、そしてなにより自分では勤まらないと判断し、お別れするということになった。
いろいろと未練ばかりではあったが、素晴らしい経験をさせてもらったとその場を去った。